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2024年2月20日(火)
【今日のみことば】 コリント人への手紙第一 10:13-14 13あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。14ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。
【ポイント】 ①クリスチャン人生の喜びと試練の両方を受け入れる 13節のみことばを苦難の中での大きな励ましとしているクリスチャンの方は多いのではないでしょうか。驚くことに、クリスチャンではないと思われるスポーツ選手などが、苦しい状況になる中でこのみことばを引用しているのを目にすることがありますね。しかし、ライフチャーチでは、このみことばが勝手に独り歩きし(文脈から切り取られ)、読む人が自分に都合のよいメッセージとして受け取っている場合が多いことを過去にも学んでいますね。もちろん、神様は私たちと共にいてくださり、常に導いてくださっていることは聖書的な真理です。ですから、苦難の中にあっても、私たちを助け、励まし、慰めを与えてくださることは間違いありません。しかし、問題は、13節がそのような真理を伝えるために語られたみことばではないということです。それでは、パウロは本来どのようなメッセージをこのみことばに込めていたのかを文脈の中で見てみましょう。
9章、10章を読めば、パウロがこのみことばを「偶像礼拝(それに準ずる行為)、姦淫、神様につぶやくことを避けなさい」という教えの中で語られていることが分かります。つまり、ここでの試練とは、神様を愛し、その愛への応答として神様のみことばに忠実に生きて行くさいに直面する偶像礼拝、姦淫、つぶやき(疑い)などの誘惑に遭うことなのです。つまり、ここでの試練とは自分の勉強、キャリアなどでの目標や理想に近づく際に遭遇する様々な障害や困難など、いわば「自己実現のために乗り越えるべき試練」ではないということです。ここでの試練とは、「神様の御心の実現のために乗り越えるべき試練」なのです。神様は私たちの夢や理想を実現するための道具ではありません。私たちこそが、神様の夢や理想(御心)を実現するために立てられた器なのです。ですから、神様は私たちが、神様の御心や計画の実現のために試練に遭ってるとしたら、必ず助けてくださるのです。
さらに、パウロは、私たちが神様の御心や計画の実現のために生きるさいに直面する「試練」が大変である理由についても述べています。それは、私たちクリスチャンの「自由」です。後の23節でパウロは「23すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。」神様の罰、神様のさばきによって人々に恐怖心を与えることは、極めて大きな「罪の抑止力(抑制)」「モチベーション(原動力)」になります。しかし、もはや神様は、私たちクリスチャンを恐怖によって支配することはありません。ですから、私たちクリスチャンはすべて自由な中で、自分の意志で、神様への愛の応答として、神様の前で正しい行いを選び取っていくことが求められているのです。実は、ルールを決めてもらい、罰則を用意してもらい、命令されることに従っていく方が「楽」なのです。自由な中で神様の前で正しい生き方を選びとっていくときには、私たちは、その都度自分の頭で考え、誘惑、葛藤に対処していくことが求められるのです。アダムとエバも「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。」という命令が与えられていた時には、何も考えずそれに従っていました。しかし、蛇はある意味「何を食べても自由なんだよ。罰なんかないよ。」と、彼らをそそのかしたわけです。アダムとエバは自由の中で、神様に対する誠実さを選ぶことができなかったのです。死という罰があると思っていた時のほうが、楽に生きることができていたのです。
パウロはガラテヤ書3章で律法を「養育係」と呼んでいます。子どもは、すべて自由な中で正しいこと、良いことを選び取る力がありません。だから、親や養育係がルールを決めたり、ルールを破った際の罰を設定したりするわけです。私たちは子どもたちのそのような状態を「未熟さ」とか「幼稚さ」と呼びます。しかし、人間は年齢を重ねる中で、親から命令されなくても我慢(自制)をしたり、勉強をしたり、家族や他者の手伝いをしたりすることを選び取るようになります。このような生き方を選び取るようになった人は、人間的に成長・成熟したと見なされるわけです。私たちの信仰の成長も、人間の成長と大きく変わることはありません。規則や罰がなくても、自分の意志、自分の喜びの中から神様の前で正しいことを選び取るようになることが、信仰の成長・成熟なのです。ただ、それは一朝一夕には起こりません。パウロが9章「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。」と語って言っている通りなのです。
ここで、決して忘れてはならないことは、パウロは神様から罰を恐れて自分のからだを打ちたたいて従わせているわけではなく、神様への愛の応答をする中で、誘惑や葛藤を覚えながらも自制心を働かせ、神様の喜ばれる生き方を選び取っているのです。恐怖に支配されている状態と愛に動かされている状態は、外から見ると違いが分かりにくいかもしれません。パウロの生き方は間違いなく後者なのです。
ローマ人への手紙8章35-37節 35私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。36「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。37しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
ライフチャーチ 大谷信道