デイリーディボーション 2月26日(水)

誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。

デイリーディボーション 2月26日(水)

2020年2月26日(水)
テサロニケ人への手紙 第二 3:9-10 9それは、私たちに権利がなかったからではなく、ただ私たちを見ならうようにと、身をもってあなたがたに模範を示すためでした。10私たちは、あなたがたのところにいたときにも、働きたくない者は食べるなと命じました。
【ポイント】 ①教会全体の成長のために知恵と力を尽くす パウロは教会の中に起きる様々な問題を神様の御心に沿って解決するという一貫した方針を持っていることが分かります。イエス様の再臨が間近であると信じていれば、仕事を辞め、再臨に備えるという行動は、大変「信仰的」なものであるということができます。しかし、ある人々にとっては「信仰的」な行動は、パウロにとっては決してそうではないということが3章全体から見て取ることができます。
私たちも注意が必要です。ある人々が考えている「信仰」は、決して聖書的ではない「妄信」「狂信」である可能性があるからです。新型コロナウイルスの蔓延についても、私たちの信仰が試されていると思ってください。礼拝の中でも繰り返しお話ししていますが、「病気であろうが、怪我であろうが私たちクリスチャンは這ってでも礼拝に参加するべきだ」という姿勢が「信仰的」であると教えられて育ったクリスチャンがいると思います。
しかし、イエス様は本当にそのように教えているのでしょうか。イエス様は、安息日について、「律法」と「昔の教師の言い伝え」を守ることが「信仰的」であると考えている人々に「27安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。28人の子は安息日にも主です。」(マルコ2章)と教えられました。ここから、イエス様を信じる者が「妄信・狂信」と「信仰」の違いを区別するように教えられていることが分かります。つまり、安息日に病人をいやすことが神様の御心であるのなら、主の日に病人を増やさないようにすることも神様の御心なのではないでしょうか。
もちろん、神様が私たちの「今日は礼拝に行かずゆっくり寝ていたいな。」とか「良い言い訳を考えて礼拝を休んでしまおう。」というような思いを喜ばれるはずはありません。しかし、「主の日の礼拝を本当に楽しみにしていたけど、他の人に病気をうつしてしまう可能性があるから、家でほかの人たちと心を合わせて礼拝しよう!」という人を神様が疎まれることはないのです。
ライフチャーチ 大谷 信道


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