デイリーディボーション 7月19日(金)

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デイリーディボーション 7月19日(金)

2019年7月19日(金)
マルコの福音書 12:31 32そこで、この律法学者は、イエスに言った。「先生。そのとおりです。『主は唯一であって、そのほかに、主はない』と言われたのは、まさにそのとおりです。33また『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」34イエスは、彼が賢い返事をしたのを見て、言われた。「あなたは神の国から遠くない。」それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者がなかった。
【ポイント】 ①課題は現代の教会でも同じ イエス様の時代のユダヤ人の問題は、メシアであるイエス・キリストを受け入れなかったことだけではありません。それは、イエス様を信じなかったことは、彼らの抱えていた問題の結果であって、決して問題の根本ではないのです。
当時のユダヤ人(特にパリサイ人)の信仰について、イエス様はルカの福音書15章の「放蕩息子の兄」として、はっきりと描かれています。それは、父の愛が当然となり、父から与えられている祝福の価値も忘れ、父が常に一緒にいてくれている喜びも忘れていることです。放蕩息子の兄が父に仕えている理由は「義務感」だけだったのです。天の父との愛の関係が抜け落ちてしまうと、後に残るのは「形だけ律法を守ること」「義務として律法に従うこと」つまり、「形だけ宗教儀式」か「律法主義」なのです。
そして、この問題はクリスチャンである私たちにも、そのまま当てはめることができるのです。ローマカトリック教会や、その影響が強く残っているプロテスタント諸派の問題は、サドカイ派の権威主義、形式主義、伝統主義と大変良く似た傾向を見ることができます。一方、根本主義、聖書主義を大切にする保守的なプロテスタント諸派は、パリサイ人の権威主義(マタイ23章)律法主義と非常に似ています。ちなみにペンテコステ、カリスマ諸派は、教会によっては極めて強い権威主義(牧師崇拝)や、マタイ6章でイエス様がその問題点を指摘している異教徒の祈り方と似た傾向を持っています。
もちろん、純粋な信仰を持っているクリスチャンはたくさんいるわけですが、自分たちの問題点について謙虚に自らを振り返ったり、聖書に記されているユダヤ人の問題点を自分自身を映し出す鏡として見ることができないクリスチャンも大勢いるのです。
私たちはいずれ、イエス様と顔と顔を合わせてお会いすることになります。その際に、あなたがカトリックであろうが、プロテスタントであろうが、それらのどの教派に属していたかなどということは何の意味も持ちません。そこで重要なことは、私たちがイエス様の愛を知り、イエス様を愛する者として歩んでいたのか、主であるイエス様のみことばに忠実に従うことを自分の使命としていたのか、主を愛し、従う人生を義務ではなく、喜びとしていたのかなどということです。いかに教会の伝統を守ること、教会の行事を守ること、戒律を守ること、霊的体験、宗教的エクスタシーに酔いしれること、社会活動に熱心に取り組むことに熱心であったとしても、イエス様との親しい愛の関係の中で、イエス様と二人三脚で歩み、イエス様のみことばに素直に従わなかったクリスチャンは、「忠実なしもべ」と呼ばれることはないのです。イエス様の目から見て本当に重要ではないことに熱心だったからです。
ライフチャーチ 大谷信道


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