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2020年8月21日(金)
へブル人への手紙 10:11-16 11また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。12しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、13それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。14キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。15聖霊も私たちに次のように言って、あかしされます。16「それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。」またこう言われます。
【ポイント】 ①抑えるべきポイントは一つ その2 あなたが誰かと結婚式を挙げるとします。その理由は、その宗教的儀式がなければ夫婦(家庭)が祝福を受けることができないと信じているからでしょうか。役所に婚姻届けを提出する理由は、結婚制度が自分たちの夫婦関係を維持するうえで不可欠だからなのでしょうか。もちろん、私たちクリスチャンにとっては、多くの証人の前で神様の前で永遠の愛を約束し、二人を導かれる神様に感謝と賛美を捧げることは大切なことですし、住んでいる国の法律を尊重し婚姻届けを出すことは、その国での法的保護を受ける上で不可欠な事柄です。しかし、本当の意味で二人を夫婦とならしめているのは、宗教的な儀式でも、法律でもなく、互いの愛であることは誰でもが知っていることです。
これは、私たちの信仰においても全く同じことが言えるのです。私たちの罪の贖い、罪の赦し、救い、神様の子となる約束など、聖書に約束されている祝福は、宗教的な儀式によってでも、制度によってでもなく、神様と私たちの愛の関係という1点のみによって実現するのです。それは、先の結婚と重ね合わせてみると、ごく当たり前のことなのです。
ですから、神様への愛がなければ、毎日礼拝をささげ、動物の犠牲をささげたとしても、そこには本当の罪の赦しはないのです。もちろん、どの時代にも、純粋に神様を愛した人々がいたことは間違いのない事実です(例:マルコ12章のレプタ二つのささげもの)。しかし、イエス様の時代の大祭司、祭司たちの様子を見ると、そこに純粋な神様への愛がなかったことは明らかです。
繰り返し学んでいますが、せっかくイエス様が「宗教(律法主義)」から「純粋な信仰(愛)」への転換について極めて明確に教えられたにもかかわらず、キリスト教会は「宗教」への先祖返りを繰り返しているのです。そして、その理由のひとつは「ルーティン」「戒律・規則」を守っていれば、祝福を受けられる、罰を逃れることができるという、人類の「ずる賢い感覚」ではないでしょうか。しかも、宗教的なルーティンや戒律を守っている人は、「真面目な人」「信心深い人」に見えますし、自分でもそのように思っている人が多いので、自分の間違いに気づかない人が多いのです。でも、それは「外れ場な信仰」なのです。
ポイントは一つです。聖書から神様の愛を知り、その愛が自分に向けられていることを知り、受け取ることです。そして、神様の愛に動かされると、私たちは神様を愛すること、神様が自分を愛してくださったように隣人を愛すること、自分の人生の目的とする決意に導かれるのです。この決心が「信仰」なのです。
ライフチャーチ 大谷信道