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2019年8月28日(水)
マルコの福音書 15:12-15 12そこで、ピラトはもう一度答えて、「ではいったい、あなたがたがユダヤ人の王と呼んでいるあの人を、私にどうせよというのか」と言った。13すると彼らはまたも「十字架につけろ」と叫んだ。14だが、ピラトは彼らに、「あの人がどんな悪い事をしたというのか」と言った。しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ」と叫んだ。15それで、ピラトは群衆のきげんをとろうと思い、バラバを釈放した。そして、イエスをむち打って後、十字架につけるようにと引き渡した。
【ポイント】 ①ピラトは職務を全うしただけ 15節に「それで、ピラトは群衆のきげんをとろうと思い、バラバを釈放した。」とあります。ピラトはローマ帝国から、地域の安定、平和を維持するという使命を帯びていました。群衆がユダヤ人指導者に扇動されている知っていたとしても、イエス様に無罪の判決を言い渡せば、暴動に発展するのではないかという不安を覚えたのでしょう。そのような事態は、自分の総督としての能力を疑われたり、キャリアに傷がついてしまう可能があるのでしょう。ですから、暴動と人殺しのかど投獄されていたバラバ(ルカ23:19)を釈放し、具体的な罪が見当たらないイエス様に十字架刑を言い渡すようなことをしてでも、群衆の興奮を抑え込むこと、ユダヤ人からの好意を得ること(貸しを作ること)が為政者としての適切な判断だと考えたのでしょう。現代の法律、人権の考え方からするとあり得ないことですし、クリスチャンからすれば神の独り子を十字架にかけることなど考えられないことですが、当のピラトからすれば、イエス様はローマ市民でもなければ、地位も権力もない人間であったわけです。不本意ではあったかもしれませんが、そのような人間を地域の全体の治安維持のために犠牲にすることはやむを得ないと考えたのです。
しかし、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」という使徒信条の一節を見ても分かりますが、キリスト教会の歴史の中ではピラトは「悪役」としてのレッテルが貼られ、悲惨な末路を辿ったという伝承が残されています。繰り返しになりますが、十字架は、人間(天使、悪魔)の協力も介入も必要としない「天の父」と「御子」の計画なのです。イエス様が十字架で苦しみを受けることは、天の父の御心であり、その苦しみの直接責任はピラトにも、ユダヤ人指導者にも、群衆にもないのです。この点を勘違いしているクリスチャンによって、ユダヤ民族に対する偏見、差別、迫害が起きたことは歴史を見ても明らかです。
ルカ 23章34節を見てみましょう。「そのとき、イエスはこう言われた。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。」
すべてのクリスチャンはこのイエス様のことばをしっかりと聞かなければなりません。すでにイエス様が赦されている人々を、どうして私たちが裁くことができるでしょうか。
ライフチャーチ 大谷信道